世界で活躍する超個性的な人物を紹介する番組「クレイジージャーニー」
様々な超個性派の中の1人、アマゾンを食べ歩く料理人・太田哲雄さん。
太田哲雄さんが学生時代から「アマゾン料理人」になるまでには数々の個性派エピソードがあるようです。
今回は、太田哲雄さんのアマゾン料理人になるまでの個性的なエピソードをご紹介します。
太田哲雄がアマゾン料理人になるまでの個性的エピソード7選!

太田哲雄さんは、長野県白馬村出身。
ご両親はペンションを経営していて、父親と山菜取りやキノコ狩り、庭には母親が育てたハーブが香る環境で育ちました。
そんな清々しい環境で育った太田哲雄さんのエピソードとは?
①太田哲雄の学生時代は料理人の追っかけ!?

太田さんの中高学生時代は料理人の追っかけをしていました。
キッカケは漫画を買おうと本屋へ行ったある日、専門書コーナーにあった料理本への一目惚れ。
その時に購入した料理専門書とは、有名シェフのジョエル・ロブションとピエール・ガニェールの本。
世界で最も多くミシュランの星を持つ有名シェフと、前衛的な料理法が評判のフランスの三ツ星オーナー・シェフです。
その専門書に出てくる、自分の知らない食材に興奮したそう。
中学生で料理の専門書に一目惚れとは、すでにひと味違います。
②太田哲雄の高校時代はアルバイト代を食べ歩きにつぎ込んでいた!?

料理の専門書をキッカケに、料理に興味を持ち始めた太田さん。
高校時代には、実家のペンションでアルバイトして稼いだお金を食べ歩きにつぎ込んでいました。
食べ歩きに選んだのは、名だたる東京のレストラン。
高校生の太田少年は、アオキのスーツにヒラキの靴で、大人に見えるよう変装。
電車で片道およそ3時間の道のりを通いました。
当時よく通ったのが、「コートドール」や「レストラン アラジン」など。
「東京屈指の名店」「日本でも5指に入る」と言われる、いずれもフレンチの名店です。
料理評論家の山本 益博(やまもと ますひろ)さんのグルメ本を手に、数々の有名店に通いました。
アイドルを追うみたいに料理人を追って、アイドルの歌を聴くみたいに彼らが作り出す料理を楽しんでいました(笑)。
ブクログ通信より
かなり癖のある高校生エピソードです。
③イタリア語学留学はほぼ挫折で食べ歩き留学に!資金が半年でゼロ!?

太田さんは、19歳で初海外へ。
両親のペンションに泊まりに来ていたイタリア人の薦めで、イタリアに行くことに。
ただし、当時話せるイタリア語は「イエス」と「ノー」。
語学学校に通いはしたものの、授業に付いていけず、スーツ片手に連日連夜、暇さえあればイタリア旅行で有名レストランを食べ歩き。
旅先では現地で知り合った人の家に泊めてもらったそう。
ほぼイタリア語が話せないはずなのに、なんというコミュニケーション能力!
そんな太田さんの様子に、とうとうイタリア語学校の先生が一言。
「料理がそんなに好きだったら、君はもう料理の世界に入ればいいじゃん」
この言葉をキッカケに、料理人を目指すようになったそうです。
しかし、高校時代のバイト代を貯めた資金は半年でゼロに。
改めてスタートをきる意味でも一旦帰国することにしました。
結果、有意義な半年だったようです。
④イタリアンマフィアのお気に入り!?

日本に一旦帰国し、約4・5年の修行をつんだ後に、再びイタリアへ。
なんと、イタリアンマフィアと知り合い相当可愛がってもらった様子。
交通事故起こしちゃった時も助けてもらいました。クリスマスイブの日に美容室に行った帰りにちょっと飛ばしちゃってたんですよね。農道のカーブを曲がらずに谷に落ちちゃって、ガラス全部割れて。自分は出血がひどくて。その時に彼が登場してくれて、いっさいがっさい全部やってくれました。
HUFFPOSTより
マフィアと言えば、映画「ゴッド・ファーザー」の様な、かなり怖いイメージ。
そこは、太田さんのコミュ力と才能があってこそなのかもしれません。
⑤世界的名店「エル・ブジ」で働きながら漁!?

イタリアには約5年居ましたが、ある時に2日間のスペイン旅に。
「スペインが俺を呼んでいる!」と感じるほどスペインにハマった太田さん。
ツテもないままスペインへ。
そして、あの世界的に有名なレストラン「エル・ブジ」に働くことになりました。
「エル・ブジ」と言えば
- ビザと寝床とまかないを出してくれる代わりに、給料は無し。
- 「エル・ブジ」に就職希望の履歴書は年間約3500通に対し、採用は約50人。
- 1年のうち半年だけのオープン
- 1年分の予約が1時間で満席に。
- 50人の客席に対して50人の従業員。
- 料理が科学的で最先端。
「エル・ブジ」でのキャリアは、日本で言う東京大学法学部出身に相当。
我慢して経験を積めば、大抵のレストランに行けるのだそうです。
しかし、ノーギャラな上に、まかない以外の食事は、自腹。
お金のない太田さんは空腹を満たす為に、モリを片手に海へ漁獲に。
ムール貝やタコを獲り、仲間にそれらを振舞いました。
そんな太田さんの当時のあだ名は「プルポマン」(※タコはスペイン語でpulpo=プルポ)。
相当タコを獲るのが上手かったようです。
⑥ミラノのマダムのプライベート・シェフに!体重500g増で大目玉!?

約1年を過ごした頃、「次は南米に呼ばれてるんじゃないか?」と考え始めた太田さん。
しかしそんな矢先、太田さんにセレブのプライベート・シェフの話が。
収入は当時のイタリア人の平均給料の倍額、そして家付き。
そこでイタリアに再び戻り、ミラノのマダムのプライベート・シェフとして働き出します。
マダムから当初依頼された内容は以下
- 家族にご飯を作って欲しい。
- ランチは、夫の分は家に作っておいて、マダムの分は太田さんがオフィスに作りに来て欲しい。
- 時々くる客の分も作って欲しい。
- 料理以外は家政婦に任せていればいい。
実際は
- 時々だと聞いていた客はランチ、ディナー共に毎日。しかも平均10名。
- ディナーはマダムが料理のテーマ決め。ある時は「秋の料理」ある時は「黒基調の料理」など
- 家政婦達と一緒に、マダムの決めたテーマに沿った部屋の模様替え。
- マダムの食べたい物を常に用意。なければ時間関係なく呼び出し。
最初に聞いてイメージしていた内容とは、だいぶ違ったようです。
とにかくマダムを満足させるのが条件だった為、最初1か月で使った食費は約200万!
次元が違い過ぎます!
太田さんの雇い主であるマダムは、当時66歳ぐらい。
毎日ブランドに身を包み、まさに映画「プラダを着た悪魔」を地で行く意識が相当高めの女性だったそう。
毎日、体重計に乗るマダムの体重が少しでも増えれば、食器部屋に呼び出され、
「私のお腹を見なさい。着てるドレスの張りが違うでしょう!」
「今朝、体重計に乗ったら500g増えていたんだけど、バターを入れたんじゃないの!?」
など、大激怒のマダムに大説教をくらうのでした。
⑦野犬と砂漠の町を経て、国民支持率50%の料理人のもとに!

約1年半、マダムの元で働いた後に、とうとう南米ペルーに。
目的は、国民支持率50%という料理人・ガストン・アクリオ氏の下で働く事。
しかし、常に最新鋭の料理の中に身を置いていた太田さんには、現地の伝統的な料理の知識はゼロ。
なので、ガストン氏を訪ねる前に、地域の店の料理人として働く事にしました。
そこは地域で有名な店で、清潔感がありキレイで従業員も親切でとても良い店でした。
ただ、店のあったカネテ地区は、非常に治安が悪い地域。
店の周りはトタン屋根をひっくり返した様な家が立ち並び、野犬と砂漠の町だったそうです。
約4・5カ月後、ようやく目的だった世界的名店「アストリッド・イ・ガストン」で働く事に。
しかし、地域に根付いた料理を求めいた太田さんには、最先端の料理はハマりませんでした。
ただ、この店で数々の魅力的なアマゾンの食材に出会います。
これらのアマゾンの食材について知りたくても、行った事がある人が少なく、情報もほぼ無し。
だったら「自分でアマゾンに行ってみるしかない!」となり、アマゾン料理人の道へ進むことになるのです。
まとめ
今回は、太田哲雄さんのアマゾン料理人になるまでの個性的なエピソードをご紹介しました。
- 学生時代は料理人の追っかけをしていた。
- 高校時代は大人に変装してアルバイト代を食べ歩きにつぎ込んでいた。
- 語学留学は挫折、食べ歩きをして資金が半年でゼロになっていた。
- イタリアンマフィアのお気に入りだった。
- 世界的有名店「エル・ブジ」で働く一方で、漁をしていた。
- ミラノのマダムのプライベート・シェフになって、マダムの要求に振り回されていた。
- ペルーの名店「アストリッド・イ・ガストン」で働いたもののハマらず、アマゾン料理人に。
料理に対する想いを抱えて、世界中を飛び回る行動力が、既に常人とは違います。
まだまだ、世界的に活躍をされそうです!