福岡ソフトバンクホークス所属で、2023年開催のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の「侍ジャパン」にも選出された周東佑京選手。
周東選手と言えば、その「足の速さ」でしょう。2019年のWBSCプレミア12では4盗塁で盗塁王に輝き、代走の切り札として世界一に貢献しました。
周東選手の足が早さの理由は何でしょうか?気になったので調べてみました。
周東佑京が50m走5.7秒の俊足の理由7選!

周東選手と言えば、連続試合盗塁の世界記録保持者で、50メートル5.7秒の俊足。これは、およそ秒速8.8メートル、時速に換算すると32km/h近くのスピードで、原付スクーターよりも速いということになります。
二軍時代には平凡なショートゴロと思われた当たりを内野安打にして注目を集めたり、あまりの俊足ぶりにSNS上では「#周東は一塁でも得点圏」というハッシュタグがトレンド入りする程です。
幼少期に野ウサギを追いかけ回したから説

周東選手の足が速いのは「幼少期に野生のうさぎを追いかけ回したから」説はファンの間ではとても有名な話です。もともとこの話はどこから出てきたのでしょうか?
野球を始めるまで、遊び場といえば、畑と山に囲まれた自宅から自転車で5分の丘の上だった。生い茂る雑草を食べる野生のウサギ3~4匹を、1日2時間も追いかけ続けた。「結局つかまえられないんですけどね。足は速くなったと思います」と笑う。
日刊スポーツより
2017年の取材で周東選手がこのように答えています。
しかし、2019年の取材では
小学5年まではずっと学年トップで、自分でも足が速いと思っていた。野うさぎを追いかけたというのもそのころだけど、1回ぐらいで…。実家が山の上にあって自然いっぱいの環境で育ったのは確か。
西日本スポーツより
と答えています。「追いかけ回していた」というのは、当時の周東選手のご愛嬌かもしれませんね。
でも、自然の中でのびのび育ったというのは大きな要因なのでしょう、母親の園美さんによると、保育園の頃から一番だったそうです。
父親の非スパルタ教育

周東選手が、成長期を迎えるまでに大きな怪我をすることなくこれたのは、父親の孝宜さんの「才能がどんなにあっても、輝く前に潰れたら元も子もない。野球少年の一番最初の夢は高校野球。そこで輝かせてあげたい」という信念を持った教育のおかげでしょう。
父親の孝宜さんの非スパルタ教育とは
- とにかく小さい頃は体を酷使しないよう、練習をしたがる息子に「投げるな」「体を守れ」と口酸っぱく言い聞かす。
- 故障予防・体力作り・肩周りの可動域拡張の為、4歳から水泳をさせる。
- 両親・妹達は毎週末の試合に同行。
徹底した故障をさせない教育でした。
この方針の裏には、根っからの野球人だった孝宜さんが、投げすぎによるひじの故障により、中学で野球を諦めざるをえなかった苦い経験がありました。
孝宜さんのこの教育方針のおかげで、周東選手は成長と共に俊足にも磨きがかかり、現在の活躍に至ります。
中学時代の名物「ベースランニング」

中学時代の周東選手は、身長が140cm程で小さくて細かったそうです。さらに、中学では特に足が速いという印象はなく、14~15人いたチームメイトの中で足の速さ3番目くらいでした。
そこで、周東選手の足を鍛えたのが、1日1時間以上ひたすらダッシュするという、チーム名物の「ベースランニング」。これは、中学時代の恩師、檜野監督の「瞬発力を鍛えるのは中学の時期」という信念の元に行われた練習です。瞬発力を鍛える事がメインなので、持久力はしません。
あの驚異の瞬発力は、この時に培われたのですね。
俊足を武器に活躍する周東選手に対し、恩師の檜野監督は「(周東選手の)おかげで野球の中で『走る』ことへの興味がましている。すごく貢献している」と話されていました。
大学時代の野球漬けの日々
大学生活は北海道網走市にある東京農業大学北海道オホーツクキャンパスで過ごしました。
厳しい冬には最も寒い時期で氷点下20度にもなり、最も近い大都市の札幌からもは約330kmも離れている為、遊ぶところはほぼ無く、勉強をするか野球をやるしかない環境だったのだそう。
そこで学生達は、朝6時から全体練習を行い、授業が無い選手たちは午前中いっぱい自主練習。冬場は屋内施設で、雪により屋外で練習できないハンデを最小限に抑えて練習。また、網走は白夜で夜の2時半くらいから明るいので、朝4時半に起きて、寮から大学までの7キロを走り、朝6時からの練習という野球漬けの大学時代を送ったそうです。
ちなみに、周東選手にとって一番キツかった練習が、どこが終わりなのか分からない位の急すぎて前も見えないような坂を、毎朝、寮から学校まで走って通う事だったそう。たま~に、サボってバスに乗って帰ったこともあるとか…。
ソフトバンクホークスの育成環境がスゴ過ぎる
ソフトバンクからは、剛球の千賀滉大選手、強肩の甲斐拓也選手、俊足の周東佑京選手といった個性のある逸材がつぎつぎに育成されてきました。そこには能力向上を重視し、球団全体で統一されたソフトバンクの育成方針があるそうです。
- 球団側が育成選手のウェイト(トレーニング)のスコア、塁間のタイム、球のスピードといった数字を把握していて、選手がベストを出したら、すごく褒める。
- 2軍でも人工芝と土のグラウンドが2つ。特に土のグラウンドで足腰に適度な負担を掛ける事で下半身の強化に。
- こうした環境で育った選手層の厚さから生じる、ハイレベルな競争によるチーム力の底上げ。
- 他チームと比較すれば、かけている金額が違う。
恵まれた環境が、レベルアップに繋がるのですね。
DNA。身内が元オリンピック選手

周東選手の母親の園美さんによると、父親の孝宜さんも足が早かったそうです。
また、父親のいとこが1991年の世界陸上競技選手権大会や、1992年のバルセロナオリンピックの代表に選ばれたこともある、元110mハードルの日本記録保持者の「岩崎利彦」氏です。
周東選手自身の、これまでの努力は言うまでもなく、遺伝子レベルで生まれ持っての俊足なのかもしれませんね。
名前「佑京」の由来は、元F1レーサー「カミカゼ・ウキョウ」
名前の「佑京」は父親の孝宜さんが、1990年代にF1レーサーとして活躍した「片山 右京」氏から取ったものでした。
片山 右京氏の単身英国に渡ってF3から自分の力でF1へと上りつめた姿が、群馬から離れられなかった父親の孝宜さんにとって憧れであり、「自分の息子には自分の力でのし上がって欲しい」という想いを込めたのだそう。
「右京」とせずに「佑京」としたのは、名字との相性で字画が足りなかったので「右」に「亻(にんべん)」が付けられました。孝宜さんの名前の字画は「15」。孝宜さんの名前は、祖父が地元で有名な神社から付けてもらったもので、息子の名前も同じ字画にしたかったのだそうです。
父親の想いの通りに息子は、ソフトバンクホークスへ入団し、盗塁王に輝き、日本一にまでのしあがり、さらにはWBCの侍ジャパンにまで招集されました。「佑京」の名前が世界に広まるのも目前かもしれません。
まとめ
いかがだったでしょうか?周東選手の足の速さの秘密に近づけたでしょうか。周東選手ほど「走る」ことに関して話題になり、盛り上がる選手はなかなか居なかったのではないでしょうか?2023年WBCでも、その見事な俊足で活躍する姿を期待せずにはいられません。